眼鏡づくりにかけた職人の情熱
鯖江に受け継がれる伝統
明治38年(1905年)。日露戦争の最中の福井。増永五左衛門に招聘された大阪の眼鏡職人・米田与八は、鯖江の若者に眼鏡づくりの技術を伝えた。技術の習得に情熱をかけた若い職人たちは、翌年招聘された東京の名工・豊島松太郎からも指導を受け、切磋琢磨をしながら地域は大きく成長していくことになる。
冬の期間の生業として
越前和紙や越前漆器など今日でも
伝統工芸が残るこの地域は、
手仕事が盛んであった。
雪に閉ざされた冬の間の
時間を大切に使う勤勉さや、
手仕事に向かい合う忍耐強さ、
より豊かになりたいという情熱、
様々な要因で眼鏡づくりは
この地に根付くこととなった。
戦時下の鯖江
戦時下の日本では物資が乏しく、多くの産業は中断されることもあり、その中で技術の伝承が途絶えてしまう産地もあったという。
その中でも鯖江は兵士用の眼鏡の需要もあり、また眼鏡づくりで培った技術を認められ無線機器などの生産を請け負うことになった。
こうして技術の伝承が守られた。
現代に続く産地の形成
終戦を迎え、鯖江の中心にあった鯖江歩兵三十六連隊の広大な敷地は民間に払い下げられ、眼鏡工場が集まる場所に姿を変えた。
この工場の集積が、日本の地域産業クラスターの成功例としてあげられる鯖江の、ひとつの要因であったと考えられる。
情熱、知恵、経験。
鯖江の眼鏡づくりが発展した最も大きな要因は、
眼鏡づくりに対する
職人の情熱が凄まじかったこと。
眼鏡にかかわるすべての技術を鯖江に集め、
素材や工作機械の研究開発、
製造工程の改良などに取り組んだ。
それぞれの会社が知恵を競い合い、
経験を積み重ねることで、
各社が独自の強みを作り上げていった。
眼鏡職人の想いと使命感
鯖江の眼鏡は、軽さやデザインを追求しながらも、一人一人の顔にしっかりとフィッティングしやすい設計がされている。眼鏡フィッターが思い通りに調整し易いようにしなやかさを持ち、力を入れてためらうことのない耐久性を併せ持ったフレーム。
「ずっと掛けるものだから、最高の掛け心地を。」
眼鏡に携わるそれぞれの職人は、共通の想いと使命感をもってフレームを作り続けている。
地域全体が大きな工場
現在、国内のメガネフレームの96%は
鯖江市で作られている。
各専門業者がパーツごとに
分業することで専門性を磨き、
眼鏡に関係する事業所は
170社以上(従業員4名以上)。
鯖江地域は「ひとつの大きな工場として」
成り立っている。
世界最高品質の眼鏡は、
日本国内だけでなく
世界中へと発信されている。
また新素材の開発や高い加工技術は、
眼鏡以外の医療機器や精密機器の分野にも
広がりを見せている。
鯖江での眼鏡づくりが
始まって、約120年。
これからもあくなき情熱と、
産地としての誇りを胸に、
最高の掛け心地を目指して。
※このページの写真の一部はデジタルアーカイブ福井よりご提供いただいております。